翌朝、カイは図書館に向かう前に、イオと共に村長の屋敷を訪ねることにした。この静寂の村を象徴する中心的存在である村長は、常に沈着冷静で人前にほとんど笑みを見せない人物として知られている。しかし、カイが論文の進捗報告をする際には、いつも耳を傾けてくれる優秀な指導者でもあった。
屋敷の扉を開けると、石畳のホールに響く足音がやけに大きく感じられる。無駄な装飾を排した内装は、村の価値観を物語っているようだ。奥の部屋に通されると、長い机の向こう側に村長が姿を現した。薄い灰色の髪を整然と撫でつけ、背筋を伸ばして座るその姿は、どこか鋭い雰囲気を醸し出している。
「おはようございます、村長。今日は客人を連れてまいりました。この方が、騒乱の村から来た学者のイオさんです」
カイが紹介すると、村長はゆっくりと目を細める。
「騒乱の村から……。珍しいですね。遠路はるばるようこそ、わが静寂の村へ」
低く落ち着いた声だが、イオに対する警戒心が微かに感じられる。イオは一礼して、穏やかに口を開いた。
「静寂の村の方々がどんな風に感情を扱うのか、勉強させてもらおうと思って来ました。差し支えなければ、いろいろお話を伺えれば幸いです」
村長はしばらく沈黙したあと、静かに頷いた。
「感情は社会を乱す要素となり得る。われわれは長い歴史の中で、それを抑える術を学んできました。しかし、完全に感情を無視しているわけではありません。理性が感情を導き、また感情が理性を試す。そのバランスを取ることが、われわれの責務なのです」
淡々とした声で語る村長の言葉は一見正論だが、イオは何か物足りなさを感じたのか、すぐに質問を返す。
「村長のおっしゃるバランスとは、具体的にどのように保たれているのでしょうか? たとえば、人が悲しんでいるときや怒っているとき、周囲はどう対処するのでしょう?」
村長はわずかに眉をひそめ、視線をカイのほうへ向ける。カイは村長の答えを代弁するように口を開いた。
「感情が昂るときは、まず心を静めることを優先します。大声を出したり、涙を流して周囲に迷惑をかけることは避ける。理性的な態度に戻るまで、一人で内省するのが良いとされています」
その答えを聞き、イオは複雑そうに微笑む。
「なるほど。でも、人はときに他者の支えがないと立ち直れないこともありますよね。独りで抱えきれない感情はどうしたらいいんだろう……」
村長はその問いには正面から答えず、少し考え込むようにして言葉を選んだ。
「私の知る限り、長い年月を経て、人々はそうした感情の嵐も自身の中で鎮め、少しずつ忘れていくようになりました。忘れることは、時には救いとなります。静寂の村の秩序は、その積み重ねの上に成り立っています」
聞きながら、カイは心の中で引っかかりを覚える。感情を忘れることでしか秩序を保てないのだろうか。確かに村は争いが少なく平穏だが、それは単に“問題を先送り”にしている可能性もあるのではないか――。
イオも同じ思いなのか、穏やかだった表情に微かな陰が差す。
「確かに、人は忘れることで前に進める面もあるでしょう。でも……それは本当に、その人の幸せに繋がるんでしょうか?」
イオの声にはどこか熱がこもっていた。それを聞いた村長は、静かに席を立ち上がる。
「この村では、その答えを長く“そうだ”としてきました。もしあなたが異なる意見をお持ちなら、是非ご自分の目で私たちの暮らしを観察し、実地で学んでみることです。結論はあなた自身で導き出せばいいでしょう」
そう告げると、村長は部屋を出て行ってしまった。カイはやや驚いた様子だったが、イオは苦笑まじりに肩をすくめる。
「厳かな方だね。気を悪くしたかな?」
「いや、村長は冷静そうに見えて、そういう論議自体を歓迎してると思う。だから僕にはイオさんとの対話を許してくれたんじゃないかな……」
カイが言うように、村長自身は完全に感情を閉じ切っているわけではなさそうだ。その瞳の奥には何か思惑がある。村の将来を案じているのかもしれない。カイはそう推測した。
屋敷を後にした二人は、再び並んで村の通りを歩き始める。曇り空から差し込む淡い光が、石畳を薄く照らしていた。
「イオさん、騒乱の村では逆に村長さんみたいな人はいるの? なんというか、冷静なリーダーとか……」
カイの素朴な疑問に、イオは首を横に振る。
「リーダーらしいリーダーはいないんだ。まあ、一応、まとめ役の年長者はいるけど、どちらかというとそのときの“気分”で物事が決まっちゃうようなところがあってね。そこは正直、問題だと思ってる。大事な話し合いをしても、すぐ感情的になって結論がブレたり、長期的な視点を持つのが難しかったり……」
騒乱の村の暮らしを思い出すように、イオは少し遠い目をする。
「感情の自由さが素晴らしいとはいえ、それだけで社会が動くと、やっぱり混乱も多いんだね」
カイは納得したように呟く。静寂の村は、強固な秩序を尊重するあまり、感情に対して抑圧的になりがちだ。一方、騒乱の村は感情の熱を尊重するあまり、秩序や長期的視点を見失いやすい。
――両極端を知る二人が出会ったのは、もしかすると必然なのかもしれない。
「……やっぱり、どこかに真ん中の道があるはずだよね。すべてを押し殺すんじゃなくて、すべてを野放しにもしない――理性と感情の調和を目指す道が」
そう言うイオの声を聞き、カイは小さく微笑んだ。
「そうだね。僕もそのヒントを探してるんだ、ずっと。イオさんとの出会いが、その一歩になるといいな」
カイの言葉を聞いて、イオの表情がぱっと明るくなる。
「もちろん。俺はそれを見つけるために旅をしてきたんだから。ねえ、カイ……もしよかったら、いずれは僕の村にも来てみないか? 直接見てもらったほうが、騒乱の村がどんなところか、よくわかると思うよ」
突然の誘いに、カイは驚きながらも興味をそそられる。
「僕が騒乱の村に……? うん、行ってみたい。村のみんながどう受け入れてくれるかはわからないけど、今の僕なら、そこから何か大きな学びを得られるかもしれない」
決意を込めて言葉を返すカイの瞳には、かつてないほどの意志が宿っていた。
――しかし、その旅立ちは村にとってどんな影響を及ぼすのだろう? 静寂の村の一員として、感情を研究する若者が騒乱の村へ足を踏み入れる。それは、双方の価値観が交錯する大きな波紋を呼ぶかもしれない。
けれど、その可能性にこそカイは胸を高鳴らせていた。自分に足りないものが、必ずそこにある気がする。