「里中さん、この案件はどうなっていますか?」
突然の質問に、里中美咲は慌てて資料を探り始めた。その瞬間、彼女の心の中で小さな影が揺れ動く。
「また来たよ~、また来ちゃったよ~」 細く縦長の体型をした妖怪が、美咲の心の中で不安げに揺れている。オドオド坊主だ。薄い墨色の体を震わせながら、お経のように不安を唱え続けている。
「早く誰かに確認しなきゃ。間違っちゃいけないよ~。責任とれないよ~」
机の上に散らばった書類の山をかき分けながら、美咲の手は小刻みに震えていた。新製品の販売戦略に関する企画書。確か一週間前に営業部から相談があって、その後…。
「申し訳ありません、営業部からの指示待ちで…」 美咲の答えに、部長の表情が曇る。
「そうよ、そうよ。どうせあなたには無理なんだから」 今度は華やかな着物を着た女性の妖怪が現れた。ダメダメ姫である。長い黒髪を艶やかに梳かしながら、上品な声で美咲の心を削っていく。
「安全な答えにしておきましょう。責任なんて、とれるはずないもの。そもそも、あなたにマネージャーなんて…”
マネージャーに昇進して3ヶ月。美咲の答えは いつも同じだった。誰かからの指示待ち、誰かの判断待ち。その度に、心の中の妖怪たちが騒ぎ立てる。
「里中さん」 部長の声が、優しくも重く響く。
「あなたはマネージャーですよ。自分で判断して、前に進めることもできたはずです」
その言葉に、新たな妖怪が姿を現した。もやもやとした形をした小さな妖怪、モヤモヤ小僧である。
「どうすればいいの?何が正しいの?」
提灯を揺らしながら、モヤモヤ小僧が美咲の心の中をさまよい始める。
会議室を出る時、背中に突き刺さる周囲の視線が、今日は特に重く感じられた。チームメンバーの目には、明らかな失望の色が浮かんでいる。
「ほら見なさい」 ダメダメ姫が優雅に扇子を広げる。
「みんなが、あなたを見る目が変わってきているわ。そうよ、あなたには向いていなかったのよ」
オフィスの窓から差し込む午後の光が、美咲の憂鬱な気持ちをより一層深めていた。二年前、彼女は部署でも一番の実務能力を買われて主任に抜擢された。そして、その実績を評価されてのマネージャー昇進。嬉しかったはずなのに、なぜか毎日が重荷でしかない。
「私にマネージャーなんて…」 机に向かいながら、美咲は小さくため息をつく。確かに、これまでの彼女は「優秀な実務者」だった。指示された業務は完璧にこなし、決められたルールは忠実に守る。レポートの品質は誰よりも高く、データの精度は常に抜群だった。
「そうそう、言われたことをちゃんとやるのが、あなたの良いところなのよ」 ダメダメ姫が諭すように語りかける。
「余計なことは考えないで、これまで通り、安全な道を行きましょう」
「でも…」 珍しく、モヤモヤ小僧が反論する。 「このままでいいの?何か、違う気がする…」
「黙りなさい!」 ダメダメ姫の一喝で、モヤモヤ小僧は小さく縮こまった。
夕方、美咲は会社近くのカフェで一息つこうとしていた。いつもは社食で済ませるのだが、今日は誰とも顔を合わせたくない気分だった。温かいカフェラテを前に、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「そこの席、空いていますか?」 穏やかな声に振り返ると、渋みのある笑顔の中年男性が立っていた。スーツ姿だが、どこか普通のビジネスマンとは違う雰囲気を漂わせている。その目には、深い洞察力と温かさが同居していた。
「あっ!」 オドオド坊主が美咲の心の中で跳び上がる。
「見知らぬ人は怖いよ~」
「どうぞ」 しかし美咲の口から出た言葉は、自分でも意外なほど自然だった。
「ワビタンと申します」
男性は静かに腰を下ろすと、珈琲を注文した。その仕草には無駄がなく、かといって気負いもない。そして、さりげない自己紹介の後、彼は美咲をじっと見つめた。
「随分と、重たい檻を背負っていらっしゃいますね」
「え?」 思わず背筋を伸ばす美咲。心の中で、オドオド坊主が震え始めた。
「変な人かも~、怪しい人かも~」
「でも、なんだか気になる~」
ダメダメ姫は扇子で顔を隠しながら、
「無視なさい。関わらない方が賢明よ」 と囁いている。
「檻…ですか?」
「ええ。自分で作った檻です。指示という名の、安全な檻」
ワビタンは穏やかに微笑んだ。
「その中で、小さな妖怪たちが騒いでいるのが見えます。着物姿の気高い女性に、お経を唱えるような細身の坊主、そして…提灯を持ったもやもやした姿の子供」
美咲は息を呑んだ。心の中の妖怪たちも固まっている。
「人の心には、様々な感情が宿ります。それらは時に妖怪として姿を現す。彼らは決して敵ではない。大切な案内人なのです」
「案内人…ですか?」 美咲は思わず声に出していた。
「ええ。不安を感じるのは、大切なことに向き合おうとしている証。自己否定は、より高みを目指したい願いの裏返し。もやもやした気持ちは、新しい可能性へのアンテナなのです」
その瞬間、美咲の心の中で、かすかな光が揺らめいた。まだ形になっていない、新しい妖怪の気配。
「わ、私には見えないことの方が多くて…」
「それでいいのです」 ワビタンは静かに頷いた。
「誰かの指示がなければ動けない。そう思い込んでいるだけかもしれません。あなたの中には、もっと大きな可能性が眠っている」
「本当かしら…」 ダメダメ姫が、珍しく迷いがちな声で呟いた。
「でも、間違えたら…」 オドオド坊主が震える声で言う。
「何か、動き出しそう…」 モヤモヤ小僧の提灯が、いつもより明るく輝いているような気がした。
ワビタンは静かに立ち上がった。
「明日、また同じ時間にここで」 そう言い残し、去っていく。名刺も連絡先も残さず。
その夜、美咲は眠れずにいた。心の中で、妖怪たちが小さな会議を始めている。
「あの人、私たちが見えてるんだって!」
オドオド坊主が興奮気味に言う。
「でも、信用できるかしら」ダメダメ姫は相変わらず慎重だ。
「なんかワクワクするね!」新しい声が加わった。まだぼんやりとした形の妖怪だ。
窓の外の月を見上げながら、美咲は考えていた。 マネージャーになってから、自分の声を押し殺してきた。いつも誰かの指示を待ち、誰かの判断に従う。それは本当に「安全」なのか。それとも、自分自身を閉じ込める「檻」なのか。
明日、また会えるのだろうか。そして、自分の中の本当の声に、耳を傾けることはできるのだろうか。
そんな思いを巡らせながら、美咲は静かに目を閉じた。心の中で、まだ名前のない新しい妖怪が、かすかな光を放っている。それは小さいけれど、確かな変化の予感だった。