日が暮れかける頃、カイとイオは村のはずれまで歩き続けていた。途中、無口な村人たちとすれ違い、道端の木々の緑に目を奪われ、時折小さく談笑しながら足を進める。
夕陽に染まる空を眺めると、一日の終わりに近づいた穏やかな時間が流れているのがわかる。静寂の村の人々は、夕暮れ時には各自の家に戻るのが習わしだ。今、村の通りにはほとんど人影が見えないほどだ。
「ここは本当に静かだなあ。耳を澄ませば、自分の鼓動すら聞こえそうだよ」
イオはそう言いながら、胸に手を当てて笑う。カイは微かな笑みを浮かべつつも、その心は複雑な感情に揺れていた。
「もしこの村の誰かが、イオみたいに素直に自分の気持ちを表現したら、どうなるだろう……?」
そう考えるだけで、何かが起きそうな予感に身体が少し震える。けれど、どこかでワクワクしている自分もいる。
そんなカイの心の揺れを見抜いたのか、イオはゆっくりと口を開く。
「ねえ、カイ。実は俺、静寂の村に来たのは偶然じゃないんだ。感情が抑え込まれる社会を、この目で見てみたかった。それに、自分の村と比べてどんな違いがあって、どんな同じ部分があるのかを学びたかったんだ。」
イオの瞳は夕陽に照らされ、赤く柔らかな輝きを帯びている。
「今まで俺の村では、感情を自由に表現できるのは素晴らしいことだってずっと思ってた。でもね、ぶつかり合いが多すぎて、毎日疲れる人もいる。それが原因で村を出ていく人もいるよ。だから、もう少し理性や抑制という概念を取り入れられないかって考えてたんだ。」
その言葉を聞いて、カイは驚いた表情になる。
「つまり……イオは騒乱の村の価値観を否定するつもりはないけれど、何か物足りない部分も感じてたんだね。」
イオは頷く。
「そう、感情を表に出すことは悪くない。でも何のブレーキもなく、ただ衝突に任せていたら、結局は新しい争いばかり生むかもしれない。僕たちは感情をうまく扱う術を知らないと、いつまでもただの“騒乱”に終わってしまう。」
騒乱の村の人々は、“感情を隠さない”代わりに“感情をコントロールする”ことをあまり学んでこなかったのかもしれない。イオはそのことに疑問を抱き、ここに来たのだ。
「僕の村は、感情を抑制することばかり学んできた。一方で、イオの村は感情を解放することに長けている。どちらも一長一短がありそうだ……」
カイはしみじみと呟く。その声には、今まで感じたことのないような熱がこもっていた。
「もしかしたら、僕たちが探しているのは、その中間にあるような“調和”なのかもしれないね。理性と感情が互いを補完し合うような新しい形を……」
自分で言いながら、カイは胸が高鳴るのを感じる。そうした考えを堂々と口にすることさえ、静寂の村では珍しい。どこか解放感があって、まるで心に風が吹き抜けるようだ。
ふと、イオが笑顔で返した。
「それだよ! そういうことが可能なら、俺はぜひ実現させたいと思う。実はね、騒乱の村だけでなく、他の土地を旅しているうちに、“感情がゼロになる場所”の噂とか、“感情が暴走して手がつけられない場所”の話も聞いたんだ。」
「感情がゼロになる場所……?」
カイは耳を疑う。感情が存在しないということだろうか。それは静寂の村が目指してきた理性至上主義とも違う、まさに“虚無”のような状態を思い浮かべる。イオは真剣な眼差しで続ける。
「うん、そこにはまったく感情がなくて、人々は機械的に動くだけだって言うんだ。でもその結果、争いもないし、生産性は非常に高いとか……。ただ、その反面、生きている喜びすら感じない世界らしい。」
カイは身震いする。それは静寂の村以上に感情を抑圧し、すべてを空虚にしてしまっているのではないか、と想像してしまう。
さらにイオは、もう一つの話も口にする。
「それとは正反対に、感情が制御不能になって“混沌の荒野”と呼ばれる場所があるらしい。そこでは憎悪や怒りが渦巻いて、暴力や破壊が絶えないとか。喜びや愛があるときも極端に強烈で、結局はすべてがぶつかり合って破滅をもたらしていると聞いたよ。」
その話に、カイは言葉を失う。騒乱の村をさらに先鋭化させたような――想像するだけで恐ろしい場所だ。しかし、その両極端な世界はどこかで「静寂の村」と「騒乱の村」を映す“極端の姿”なのかもしれない。
「虚無の地と混沌の荒野……そのどちらも、僕はあまり幸せな世界とは思えないな……」
カイは小さく呟くと、夕陽が山の稜線に沈もうとするのを見つめる。遠くから吹く風が、二人の髪を揺らした。
「だからこそ、俺は探している。感情を否定もしないし、全てを野放しにもしないで、上手に共存させる道をさ。カイみたいに、理性を重んじながら感情を研究している人と意見を交わすことは、俺にとってすごく大きな学びなんだよ。」
イオの言葉に、カイは自然に笑みがこぼれる。
「僕も、あなたと出会ってから、抑えていたはずの気持ちがどんどん浮かび上がってくる。この村での暮らしに疑問を感じ始めていたんだ。だけど、どうしたらいいのかわからなくて……。あなたと話すうちに、もしかしたら僕にもできることがあるんじゃないかって思えてきたよ。」
抑制と解放、理性と感情――それらは本当に相容れない対立関係なのか、それとも相互に支え合う両輪なのか。夕闇が二人の姿を包み込み始める中、空には一番星が輝き始めていた。
その晩、カイは久しぶりに夢を見た。夢の中で、彼は声を張り上げて笑っていた。周囲には何故かイオだけでなく、静寂の村の人々まで楽しげに笑っている。それは彼が見ることのなかった光景だ。目が覚めたとき、胸がぎゅっと熱くなり、涙がこぼれそうになる。自分でも理由がわからない。しかし、その涙は嫌なものではなかった。
「……こういうのが、感情の力ってことなのかな……」
窓から朝日が差し込み始めると、カイはそっと目を拭い、微笑みを浮かべた。
――感情は煩わしくもあるけれど、こんなにも人を生き生きとさせるものなのかもしれない。